由緒

アイの風とともに、酒樽に乗りてこの磯に至る

伝承によれば、この神はアイの風(注1)のまにまに酒樽に乗って漂着したと伝えられている。であるから春祭りには往時をしのんで必ずアイの風が吹くのだと聞く(注2)。県内でも漂着神伝説で最も著名な神社である。「往古酒樽に乗りてこの磯に寄り給ふ」神として、この神社名も名付けられたのである。
漂着地点に鳥居が建てられていたと言われているが、海の埋立てとともに移設され今は本来の場所ではない。現在は石川県漁業協同組合能都支所の近くに建てられ、今でも「御旅所」と呼ばれ、御旅の際や神事には重要な役割をもっている。古老の伝えや『能登志徴下巻』の記事(注3)は、漂着場所から旧社殿地(現社務所)までの地域を地元の人々は 聖地としており、お産などの不浄を忌避してきたという。

御祭神

  • 大山祇命
  • 倉稲魂命
  • 応神天皇
  • 神功皇后
  • 菅原大神
  • 稲背脛命

酒垂神社の歴史

平安時代―創 祀―
当社神社明細帳の記載は、「本社創立ハ明記ヲ闕クモ千数百餘年前、既二現存ノ古社ニシテ仁明天皇ノ御代ノ創祀トモ伝フ(口?)云々」とある。「仁明天皇ノ御代」とは平安時代の初期、西暦833年から850年までの治世を示すが、資料は当社の記事だけであり、またその出自は不詳である(注4)。

鎌倉時代―格段の社格を示す神田五段―
明治13年の神社明細帳をはじめ当社の記事は、「亀山天皇御宇文應二年(1261年)依 叡慮當社江神田五段歩御寄付臣家継ヲ以 詔書下給・・(後略)」と、鎌倉時代半ばに神田五段の寄付が詔書とともにあったと伝えている(注5)。
一方で弘長2年(1262年)の能登國諸橋保文應二年田数目録(諸橋稲荷文書)として「宇出津田数九町七段九・・のうち神田一町六段。二段白山、二段山王、五段酒垂、二段御嶽、三段観音堂、一段若宮、一段阿弥陀堂」(注3前掲)とあり当社の記録と符合する。この格段の配慮の理由は現在では不明である。当社の記事はさらに、越後勢の兵火でその詔書は焼失したとしながら、加賀藩からの問合せに、沖波村の諸橋信光、波並村の飯森 後藤というのが、その証したるものを「旧藩家禄方江差出」していると記している。

江戸時代―寛政の大火と上野台地へのご遷宮―
寛政11年(1799年)6月4日、中組より出火し当社頭や加藤家をも含めて氏子地域194軒を焼失せしめた(注22)。皮肉なもので折しも当時の宮司であった12代加藤吉彦は宣長膝下伊勢松坂遊学中であった。
文化12年(1815年)3月、「此?酒垂新九郎屋敷」にあったご社殿を「上野畑」へご遷宮する(宇出津村肝煎役控帳 河村喜平家保存 注6)。春祭の時日と合わせて三月十五日棟上げ、十六日ご遷宮(注)、十七日宵祭、一八日祭礼の記事が見られる。当時の宮司は吉彦の嫡子である、十三代加藤鷹彦。「酒垂新九郎屋敷」の確定はできないが、現社務所付近と考えて大過ないと考えられる。現在地に移転して約二百年となる。民家から離れた「上野畑」への移転は大火に懲りたのであろう。ご社殿の復興に16年の歳月がかかっている。

世襲社家と十二代宮司加藤吉彦(えひこ)

1 社 家
延宝8(1680)年、『能州触下社人住所付之帳』に「宇出津村酒垂大明神、加藤日向守云々」とあり、加藤家が累代世襲の社家である。先祖は鷹愛であるが、当家家譜書(注7)では「父及割(創?家)ノ年月不詳 天文2(1533)年五月死去」とあり、室町時代の後半に任官していたことを示している。織田、浅井などの有力戦国大名出現の時期でもあり、また蓮如を中心とした一向宗など仏教勢力台頭の時代でもあることに注目される。当家に残された「従五位下」叙任を示す「薄墨」(注8)は、十四代龍彦一枚のみで他は失われている。

2 本居宣長と門人加藤吉彦
当社12代宮司加藤吉彦が、国学の大家本居宣長の鈴屋に入門したのは「寛政9(1797)年丁巳」のことであった(注9)。宇出津を訪れた伊勢の御師北御門益孝の導きにより、向学心に溢れる吉彦が伊勢松坂の宣長の門をたたいたのである。宣長68、吉彦36の歳である。その時の入門旅日記を吉彦自身「千尋の浜草」と名付けている。和歌を添えた旅日記である。吉彦は伊勢松坂の宣長の膝下に三度赴き、またその生涯に写本・著書・版本を合わせて百五十二部、三百十二冊を著している(注11・12)。
宣長との個人的で直接的な関係を知る資料は下記のとおりである。

  1. 「千尋の浜草」(注6前掲) 寛政9(1797)年、吉彦が能登に帰るにあたり、宣長はじめ有力な門人らが吉彦と餞別の歌を詠みあっている(注13)。
    けふはかくわかるる君を悔しくも 能登の嶋山の上にぞ思ひし 宣長
    わかれても又かえりこん松坂に 千代もと祈る君しいませば 吉彦
  2. 「鈴屋翁七十賀會集」(注14) 宣長の古希にあたり詠んだものである。宣長館には別の歌が残されていた(注15)。下記は収載されたものである。
    たもつへき君かよはひは玉椿八千代の春もつきしとそ思ふ 吉彦
  3. 古事記頒題歌集」(注16) 宣長が寛政10(1798)年6月、『古事記傳』全巻
    完成を祝って、古事記所見の神々人々を題材として、一人一題ずつの詠歌を募っている。大國主神を与えられた吉彦は猛き神格をこのように詠んでいる。
    八十神を はらひたひらけ 大八しま 國つくらしし 神はこの神 吉彦
  4. 宣長から吉彦に宛てた手紙―寛政11(1799)年11月26日付―
    寛政11(1799)年、宣長は吉彦に常椿寺抜山らの入来対面したことと(注17)、宣長が現在「宣命解」にかかっており、その出版が来春であることを伝えている。残念ながらこの手紙が当家にないことが惜しまれる(注18)。吉彦は宝暦12(1762)年生れ、没年不詳だが写本「月の後見」(注10)跋文の記載から、74歳以上であることは確実で、さらに祝詞集『神祭詞記』は天保7(1836)年であるから、75、6歳であると推定している。

3 当家の霊舎に祀られた宣長の位牌
当家の霊舎(注19)には宣長の位牌が祀られている。大ぶりな笏板に、片面には「秋津彦瑞櫻根大人 御霊」、裏面に没年「享和元年九月二十九日行年七十二歳」「本居中衛平阿會美宣長高岳院石上居士」と記している。この諱と戒名は宣長が生前に示した「遺言書」(注20)のそれと同じであることが特筆される。吉彦は都合3度伊勢の本居家を訪ねており、その3度目は師である宣長の没3年後(文化元年 1804年)のことである。宣長を尊崇し慕い奉る吉彦の姿を知ることができる。
宣長はその「遺言書」の中で、門人らにこのような位牌を各人がつくり、祥月命日(9月29日)には、床の間に飾って和歌の研鑽会をしなさいと説いている。師の遺言書を知っていた吉彦は、忠実に師の遺言を実践していたようである。
当町の神社で最も棟札が多いのは当社であるが、中でも吉彦の代が最も多い(注21)。拝殿の俳額、また他地区の古文書中に「千尋なる先生」という名前で登場し、当時果たした役割の大きさが想定されるが、吉彦の業績の顕彰はこれからである。

注1 アイの風とは地元では北東方向からの風を言い、春先に特徴的であるという。アエの風ともいうようである。宇出津定置網組合長久田久雄氏、当社役員山瀬俊夫氏より教示いただいた。
注2 小倉学1965 『能登半島学術調査書』「第7部 能登の民俗」石川県
注3 石川県図書館協議会1938 『能登志徴』下巻「巻八鳳至郡」二三四頁 石川県図書館協議会
注4 加藤利秋宮司1948 昭和二十三年神社明細帳
注5 加藤常彦祀掌1880 明治十三年神社明細帳
注6 故小林篤二先生の資料によるが、当社棟札とも合致している。
注7 加藤次雄社司1899 「加藤家歴代家譜書」明治三十二年 『官令簿』
注8 「薄墨」とは、言うなれば神職の免許である。和紙を墨染めしたもので灰色の書面に書かれていることからこう呼ぶ。「従五位下」叙任は神職任官の証明書である。
注9 「鈴屋門人録」、「授業門人姓名録」『本居宣長全集 第二十巻』1977 筑摩書房
注10 「月の後見」とは源治物語注釈書であり、当時一般的であった「湖月抄」の書写である。
注11 深川明子1969 「本居宣長の門人加藤吉彦についてー入門の記「千尋の浜草」と源治注釈書「月の後見」を中心として 『密田良二教授退官記念論集』
注12 深川明子1974 「千尋の浜草」(翻刻と解題)―本居宣長の門人加藤吉彦の入門旅日記―金沢大学語学研究 第5号
注13 この歌の短冊は今も伊勢松坂の本居宣長記念館に残されている。
注14「鈴屋翁七十賀會集」『本居宣長全集 別館二』1977 筑摩書房
注15 本居宣長記念館館長吉田悦之氏より、ご教示をいただいた。
注16 「古事記頒題歌集」『本居宣長全集 別館二』1977 筑摩書房
注17 この時に宇出津の住人であった、常椿寺抜山和尚、真脇久右エ門安宣、秦藤三郎甫冬、清水恒右衛門悟里の四名が鈴屋に入門している。それが吉彦の導きであることがわかる。
注18 この手紙は、現在宇出津新町の益谷健夫氏蔵である。
注19 霊舎あるいは「みたまや」とは、先祖の位牌・霊位を納置する。
注20 「遺言書」『本居宣長全集 第二十巻』1977 筑摩書房
注21 棟札55枚中23枚が吉彦で、病弱であった鷹彦3枚を合わせればほぼ半数である。
注22 「年表」『能都町史』第5巻 1125頁